「五・七・五」の頭の五文字(冠題)を交代で出し合って、毎日、一句の交流です。
一月二十七日(火曜日)
○
腹を決め 向かって行くぞ その日まで けいこ
試験本番の日が来るのが怖いよ~!
○
腹を決め 寄る年波に 立ち向かう みどり
「三人寄れば文殊の知恵」 ならぬ 「三人寄れば病気の話」 という今日この頃。
え~い、そんなんじゃ、いかんぞ~! 明日は「
大安心」 で一句、詠んでみましょう!
切り株に芽が... 失われた「わたしの原っぱ」
蘖(ひこばえ)という言葉、一般にはあまり聞かなくなったような気がします。『広辞苑』 には、「伐った草木の根株から出た芽」 とあります。切り倒された木の株や根から再生して来る若い芽のことで、「孫生(ひこばえ)」 とも書くそうです。
写真の木はウチの横の空き地の切り倒された名前を知らない木にぎっしり生えたヒコバエです(昨年晩夏撮影)。しかし、昨年末、この
いのちある切り株も何もかもすっかり掘り返して更地になって、いま三軒の家が建とうとしています。「わたしの原っぱ」がなくなりました。
木には望みがある。
たとい切られても、また芽を出し、
その若枝は絶えることがない。 (『旧約聖書』ヨブ記14章7節)
連載『ヴィマラキールティの教え』(191)
第8章19節
(19)スマティ(知恵のすぐれた;妙意、妙慧)菩薩が言いました。
「眼と色(色形をもった物)という、それが二です。そして、眼を完全に知るものは、諸々の物に執着せず、害なわれず、惑わされません。それが寂静と言われます。[同様に]耳と声、鼻と香、舌と味、身体と触、心と法(存在)という、それぞれが二です。そして、心を完全に知るものは、法に執着せず、害なわれず、惑わされない。それが寂静と言われます。このように寂静に住する人の、不二[の法門]に入ることです。」
(<現代語で読む『梵文・維摩経』> 明日につづく)