「五・七・五」の頭の五文字(冠題)を交代で出し合って、毎日、一句の交流です。
十月十四日(火曜日)
○
待ちわびて 爪先立(だ)って 門に立つ みどり
子を思う母の心って、ほんとうに無条件で、ありがたいなぁ...。母を失って、母の恩愛、
深く胸にしみています。会いたいなぁ...。
○
待ちわびて 過ぎ行く時も 楽しんで けいこ
未来に楽しみがあると、待つ時間も楽しいですよねぇ。明日の冠頭は「
欲張らず」 でお願い
致します。
「親」という字
ずいぶん昔のことですが、「親」 という字の成り立ちを次のように説明してくれる人がいました。
子どもが村を離れる日、親は心配でたまらない。
「みんなと仲良くやっていけるだろうか、水が変わって病気になりはしないだろうか、さびしくないだろうか... 」 などなど。
村の外れで子どもを見送った後も、親はひとり高い木に上って、ずんずん小さくなっていく子どもをいつまでもいつまでも見送る。
だから、親という字は 「木に立って見る」 と書くんだよ。
通俗字源解釈とでもいうものでしょうが、非常に心に残り、今もよく思い出します。
連載『ヴィマラキールティの教え』(126)
第4章6節
(6) また、家長よ、あなたのその病気はどこから来たのですか。どのくらい患っているのですか。病気はいつ治るのですか」と(マンジュシュリーは尋ねました)。
ヴィマラキールティが答えます。
「マンジュシュリーよ、[この世に] 無明と有愛(存在への渇愛)がある限り、私は病み続けます。一切の衆生が病気から離れたものとなるとき、そのとき私の病は消えるのです。
なぜならば、マンジュシュリーよ、菩薩が(この世で)輪廻するのは衆生を支えるためなのです。病気は輪廻によって起こっているのです。ですから、一切の衆生が病気から離れたとき、菩薩も病気でなくなるのです。
(<現代語で読む『梵文・維摩経』> 明日につづく)