「五・七・五」の頭の五文字(冠題)を交代で出し合って、毎日、一句の交流です。
八月十五日(金曜日)
○
なれるなら 村の外れの 一本杉 みどり
木になってみたい。みんなを見守り、みんなに見守られて、いつも静かに立っている、そんな
木になってみたい。
○
なれるなら なってみないと わからない けいこ
隣の芝は青く見えるけど、実際はどうかわからない。他人と自分を比べても空しいだけなのに
いつも比べてしまいます。明日の冠頭は「
比べても」 でお願い致します。
連載『ヴィマラキールティの教え』(92)
第3章53節
(53) このように彼が説いたとき、世尊よ、その会衆のうち、二百の天子たちが、「ものは不生であるとの確信」(無生法忍)を得ました。そして、私は何も言えませんでした。
ですから、世尊よ、私はかの貴いお方の病気見舞いには伺えません。」
(<現代語で読む『梵文・維摩経』> 来週月曜日につづく)
弟子たちが維摩の病気見舞いを断るワケ ― 看護人が満たすべき五つの条件
舎利弗をはじめとする釈尊の十大弟子たちは、かつて維摩に完膚なきまでに論破されているから、「あの方は苦手です」ということでお見舞いに行きたくないと言っているように思える。しかし、実際はそうではない。別の理由があったのだ。
二千年の昔、釈尊は「適格な看護人の要件」 として五つの項目を定めておられた。 『南伝大蔵経 第十九巻 増支部経典 三』、(200~201㌻) の伝えるところによると.....
①薬を調合する能力がある。
②病人にとっての適不適をわきまえている。
③慈心の故に看病するのであり、利得のためでない。
④大小便、吐瀉物等を除棄するを嫌がらない。
⑤病人に法話を聞かせて、導き、励まし、喜ばせることができる。
これら五項目である。①~④は今の時代にもそのまま適合する。我々に馴染みが薄いのは、⑤である。これは、「病者の恐れ不安を除く話をして聞かせられる」 ということであり、現代風に言うなら「スピリチュアル・ケア」 に相当するのではないだろうか。
弟子たちは過去の痛い経験から、「維摩を説得できるような尊い話はとてもできない、自分には病気見舞い人・看護人の資格はない」ということから、病気見舞いを断っているのである。