「五・七・五」の頭の五文字(冠頭・冠題)を交代で出し合って、毎日、一句の交流です。
八月三十日(木曜日)
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秋の味 梨の実食べて喉潤う けいこ
今日は朝から雨です。つむじ風くん(
8月29日の記事参照)、なかなか快調です。治療現場でも、
鍼が恐いという人などに活かしていきたいと思っています。
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秋の味 北の大地のキタアカリ みどり
1987年に命名登録された比較的新種のジャガイモです。羊蹄山の麓で、私の年少の友が
農業を営み、このキタアカリも作っています。彼女のキタアカリは絶品!
ようやく猛暑から解放され、昨日、久しぶりに自転車で染井霊園を走った。ここには、親しくしている「見ぬ世の友」が何人かいる。外人墓地の一隅に眠る「東洋のナイチンゲール」ローダスカ・ワイリック師もその一人。
その墓碑を写真に収めた。墓碑の側に、紙に書いた手書きの説明板がある。既に色褪せており判読困難だが、以下のように読めた。
ロダスカ・ワイリック(1856−1914): アメリカ合衆国オハイオ州に生まれ、1890年(明治23)ドレイク大学を苦学して卒業。直ちに宣教師として来日、5年間にわたり伝道活動に携わり、一時帰国。翌1896年再び来日し、教会を開いて伝道に努める一方、学習院や府立四中(現在の都立戸山高校)等で英語を教えたり、多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した。また、当時偏見の強かったハンセン病施設で患者の世話をしたり、四谷鮫が瀬のスラム街での奉仕活動にも尽くした。
日露戦争(1904−05)が始まると看護婦と医師の資格を持つワイリックは戸山の陸軍病院に赴き病床から病床を回って負傷兵を励まし、献身的な介護に当たった。いつしか、「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになり、日本政府や東京府からも表彰された。
人類愛と奉仕活動に尽くした信念の人ロダスカ・ワイリックは1914年(大正3)4月30日、東京赤坂の病院で死去。享年57歳。ここ染井霊園で永遠の眠りに就く。
*なお、墓碑の頂に載った書物型の石には 「かれ死ぬれども 信仰に由りて 今なほ言へり」 と
彫られている。しかし、彼女の存在もその事跡もあまり知られていないような気がする。私も
もっと知りたいのが...。