「五・七・五」の頭の五文字(冠題)を交代で出し合って、毎日、一句の交流です。
十一月二十五日(火曜日)
○
冬桜 紅葉と錦を 織る健気 みどり
冬桜の本物は見たことないんです。テレビや写真の映像を見ると、紅葉の側で必死に(?)
彩りを添えているように思えます。。
○
冬桜 寒さに負けず 花咲かそう けいこ
朝、寒いです。試験の疲労がかなり残っていて、ちょっと辛かったですが、なんとか起きれま
した。明日は「
自然体」 でお願いします。
青春も中高年もまたよろし ♪
日曜日の朝刊で 「毎日歌壇」 を眺めていたら、面白い対をなしている二首を見つけた。同一選者に選ばれた作品なので、コントラストの面白さを意識して配置されていたのかもしれない。
若者が詠んだであろう先の一首と、中高年の作であろう後の一首の落差がなんとも可笑しい。人生のステージこそ違うけれど、どちらもいきいきしていて、楽しいではありませんか。
○両の手をおなかにそろえ君が持つ ぼくのかばんを揺らす終バス S 男
○踏み込まず踏み込みもせず倦怠期 真ん中にある有刺鉄線 J 子
写真は「猩々草」(ショウジョウソウ)です。しばらく前から名前が分からず気になっていたのですが、昨日、偶然、判明しました。「猩々木」 というとポインセチアのことだそうです。なるほど、どちらも葉っぱが花のように華やかで、似ていますね。
連載『ヴィマラキールティの教え』(156)
第5章5節
(5) 大徳シャーリプトラさん、法は有為でなく、しかも無為も離れています。有為を行境(対象)とする者は、法を求めているのではありません。彼らは有為を把握しようとしているのです。
それ故、大徳シャーリプトラさん、法を求めることを目指すならば、あなたは一切法を求めないことによって求めるべきです。
このように法の説示が示されたとき、五百人の天子たちに、諸法における法眼が浄らかとなりました。
(<現代語で読む『梵文・維摩経』> 明日につづく)